シルバー天使の応援歌 ⑮ 田中義剛・花畑牧場


田中義剛の原点は高校時代に訪れた北海道にあり、そこで芽生えた少年らしいピュアな憧れに宿っている。純真な16歳の少年は、事故死した親友の無念を受け止めようと青森八戸から訪れたオホーツクで、眼前の海に散った友と語り合ったのだろう。しみ出てくる悲しみの中で、惜別の涙を流したであろうことは想像に難(かた)くない。傷心を癒(い)やす旅を続ける中で体験した日高での牧場暮らし。短い時間とはいえ、人々との交わりや動物との触れあいは、生きる者の営みとして少年の胸に深く浸透していったと思われる。この時の思い出が将来の生き様に重大な影響を与えたことは、その後の彼の人生が示している。牧場経営者としての土台が決定したとも言える。

 

 

大学進学を考える時、「酪農学園大学」以外脳裏に無かったようだ。こうして入学した大学では「肉牛研究会」に属し、熱心に牛を研究していた。一方趣味で高校時代から続けていたフォークソングの弾き語りは、なかなかの腕前で素人離れした域に達していたようだ。シンガーソングライターとして「知る人ぞ知る」と言われるまでの活動を展開するようになっていた。1980年、田中義剛22歳の時、日本コカコーラ主催のフレッシュサウンズコンテストで審査員特別賞を受賞。その後、ラジオ番組の歌手としてオーディションを受けたが、歌よりも「喋り(しゃべり)が面白い」ということで、そちらで合格してしまった。北海道のSTVラジオ深夜番組内で「田中義剛の酪農根性」という5分間コーナーがスタートすることになった。

 

 

大学卒業後はシンガーソングライター、ラジオパーソナリティとして北海道全域にその名を広め、1985年27歳の時、ポーキャニオンからシングル「トライ・アゲイン」をリリースし歌手デビューした。1987年29歳、ニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティに抜擢(ばってき)されたのをきっかけとして東京進出を果たし、アップフロントプロモーションに所属。東京を起点として全国に活躍の場を広げていく事となった。

 

 

田中義剛のしゃべくりは、何とも言えぬ温もりがあり、嫌みの無い泥臭さが、プロ芸人には無い親しみを誘うのだ。そして彼はシンガーソングライターの顔もしっかりと維持していて、歌もそこそこホッコリと良い。特段の芸術性が有る訳ではないが、それなりの味わいを持っている。それでもしかし、やはり田中義剛の持ち味は「しゃべくりと人間味」と言えるだろう。その味わいのある人間味が多くの人達に支持され、全国的な人気となって受け入れられていったのだ。当然のごとく世間では、芸能人としての成功した田中義剛を確信していた。現在の活動を基板として、更なる芸域を目指して、盤石の環境を造るだろうと思っていた。彼にとっての芸能活動は、あくまでも牧場設立の資金集め活動だったことを知らなかったからだ。

 

 寂しい「名ばかり牧場」の頃

1994年、田中義剛36歳。少年の頃抱いた夢を実現すべく立ち上がる時が遂に来た。蓄えた資金と事務所からの借り入れを元手に、夢の一歩を北海道河西郡中札内村に「花畑牧場」として歩むこととなった。23ヘクタール(東京ドーム5個分・・牧場としてはミニサイズ)の土地と1頭のジャージー牛のみ。衆人は「田中義剛が功成り名を遂げて、芸能人の遊びを始めた」と見る人がほとんどだった。マスコミも軽いノリで囃(はや)し立てる事はするが、取材で訪れた牧場が描いていたイメージとは程遠く、ろくな施設も無い殺風景な姿である事に、落胆の色を隠そうとはしなかった。巨大観光牧場のように整った施設も広大な牧草地も何も無い状態の、名ばかり牧場の姿を晒(さら)していたからだ。田中義剛の辛そうな顔が痛々しかった。準備が整う前にも関わらず来てくれるのは有難いが、「有名人である事による大きな集客力」に圧倒されていることも事実だった。戸惑いと感謝が交錯する日々が続いた。観光を前面に押し出せるように整備したい、早くこだわりの酪農製品を作りたい。生まれたばかりの牧場をどう育てようか、今はその入り口に立って、夢の実行に踏み出そうとしている自分を実感するばかりだった。1995年、両親、家族全員牧場に移住。

 

田中義剛は「北海道酪農学園大学」出身だ。牧場の第一歩は何が何でも「チーズ」でデビューしたい。しかも、「手作り、無添加、安全、美味しい」の絶対条件は田中義剛の心そのものだ、外す事があってはならない。このようなポリシーのもとチーズ作りを開始したが、作っては失敗し、又作っては失敗しを繰り返し、やっと製品として出荷した時には既に3年の月日が過ぎ去っていた。ここで出来上がった熟成タイプの自家製チーズ「カチョカブァロ」がその後の「花畑牧場製品」の原点となり、機械に頼らず人間の手で作る安全食品の出発点となった。1998年。

 

 

  

2000年、自家製チーズ「モッツァレラ」「マスカルポーネ」を相次いで発売。又、自家製チーズを使用したチーズラーメンを開発し、東京恵比寿の「九十九とんこつラーメン」で「○究ラーメン」として発売するや、一躍人気メニューとなる。同店は行列のできるラーメン店として知られることになった。

2001年、「花畑牧場のチーズ」が「全日本ナチュラルチーズコンテスト」で優秀賞を受賞。2002年、同コンテストで2年連続優秀賞を受賞。2003年、自家製チーズ「ストリング」「フロマージュブラン」発売

 

この頃から「生キャラメル」の商品化に向けて研究を始めたが、ここでも徹底したこだわりのために、周りの社員も当惑することばかりであった。「完全無農薬の花だけから採取した蜂蜜」を求めて、世界中を探し回った末ニュージーランドで、世界唯一かも知れないと言われる業者を見つけてきたり、人手で練り上げる工程では、「最も良い状態を探して際限の無い作業の繰り返し」をしていたり、何を作ろうとしているのか、周りは見失いそうになる程だった。この時の田中義剛は、「良い物を作りたい、食べる人を笑顔にしたい」そんな思いだけであった。とは思うが、意外に「他社との徹底的な差別化」というような経営者的計算は無かったのかな、などと勘ぐらない事もない。割と大雑把、大胆でありながら、経営センスは動物的感覚を持っているようにも見えるので。2007年、「生キャラメル」は田中義剛自身の営業活動に加えてテレビで取り上げられた事により、先ずは北海道千歳空港で爆発が始まった。瞬く間に札幌から北海道全域に「北海道土産」として広がり、やがて東京でも買うことができるまでに広がりを見せていった。

 

      

「生キャラメル」の爆発を機に事業を一気に拡大させて、工場を造り、店舗数を拡大し、従業員を増やし、一大グループを形成していった。2009年3月期の売り上げは約143億円となり、出発時4億円の35倍までに膨れ上がっていた。しかし、拡大とは裏腹に、この頃をピークとしてブームの終焉(しゅうえん)がちらほらと姿を現し始めていた。それでも田中義剛はその兆候を軽く見ていたようで、拡大路線を変えようとはしなかった。しかしそれも時間の問題となり、急激に減少していく数字は無視できない処まで落ち込んでいった。しかし、もしかしたらこの状態は、彼の頭の中では計算済みだったのかも知れない。「短期間でやるなら、ドッカンドッカン店を造っちゃえ」「ブームはどうせ終わるから」これは彼自身の言葉だ。そして、東京の原宿や銀座の店舗は2年契約にして、それを延長しようとはせずサッサと閉じてしまった。世間ではいろいろ取り沙汰されたが、彼の感覚的経営では全て「想定内」だったのかも知れない。

 

   縮小の重要な一歩は、1年程前に稼働したばかりの札幌工場を閉鎖することだった。社員達と派遣従業員300人の再就職や製造ラインの移転など辛い仕事が山積していた。社員とパートの従業員は夕張工場や札幌市内の直営店へ移動させることができたが、300人の派遣従業員には涙を飲んでもらうしかなかった。雇用に貢献できたと喜んでいたが、ここでは感覚的経営の「脇の甘さ」が、罪の無い人達に苦労を背負わせることになってしまっていた。この時になってやっと、「経営者の社会的責任」を痛感したのではないだろうか。花畑牧場設立間もない頃に味わった、「30人いた従業員がたった1人だけとなり、1億円の損失の中でもがいていた」経営者としての無念を再び思い出すことになろうとは・・・。あの時は若さがあったが、社会経験が無かった。今回は社会経験は豊富になっていたつもりだが、次元の高い責任感がまだまだ充分ではなかった。札幌工場で泣かせた300人の派遣従業員にはその倍以上の家族がいる事の重みを心から噛み締めたことだろう。

 

さてここで、出来の良くない田中義剛を語るのに、数ある失敗に触れない訳にはいかない。

  • 先ず本拠地の花畑牧場・・牧場内建築物3棟が建築基準法違反。生キャラメルやチーズ、アイスクリームなどを製造している第1工房と第2工房、飲食店「ホエー豚亭」が建築の確認申請をせずに建設。そして、① 防火壁や非常用照明装置の未設置 ②排煙設備の不備 ③廊下幅や天井高さの不足などにより是正計画書の提出を求められた。・・・あり得ない話。
  • 生キャラメルは「ノースプレインファーム」の開発した菓子であることを忘れていたのか、知らなかったのか、自社独自開発のつもりで「生キャラメル」として登録商標出願。当然、却下。・・・無知が招いた当然の帰結。
  • 伊達市の「牧家」で販売されていたチーズ「カチョカヴァロ」と同じようなチーズを、「自家製チーズ・カチョカヴァロ」として売り出してしまった。・・・二番煎じであることを知らなかったようで、「パクリ」と言われ続けている。
  • 「バルーンプリン」はこれも伊達市の「牧家」が販売している「白いプリン」にそっくりで、パクリと言われ続けている。
  • 「天使のポテト」は「ロイズ(日本の菓子業者)」の物と良く似ている上に、「ロイズの方がうまい」と言われ無し。

 全て無知と脇の甘さからくる、ガムシャラだけでレベルの低い「素人ワンマン経営者」の典型的な姿だ。こんなルーズな経営者であるにも関わらず、なぜ潰れないのか。考え込んでしまうが、やはり「ガムシャラな素人ワンマン」の人間性に依るのだろうか。そんな単純な理由である筈はないのだが、只この頃の彼からは「もはや素人とは言えないかな」と思われる側面も見受けられるようにはなっていた。サナギが蝶になるように、失敗の中での葛藤に磨き上げられて、「ガムシャラだけど失敗経験豊富なワンマン事業家」に変身していたようだ。この変身した事業家は失敗経験だけではなく、更に格別な強みを持っている。生来身につけている、味わいのある「しゃべり」とそれを生み出す人間味だ。強力な武器と言ってもいい。

 

    

蝶になった田中義剛は事業の進め方を大きく変えることにした。今までは、直営の販売を主としていたために、工場製品もほとんど直営店で販売する方式であったが、これを間接販売に方針転換したのだ。手始めはコンビニの「ローソン」。田中の強力な武器を縦横に駆使して商談をまとめていった。「ローソンのタルト」「安納芋と黒ごまのタルト」「アイス花畑」全てローソン仕様。次いでファミレスの「デニーズ」や「しゃぶしゃぶ温野菜」で使われるチーズ、100円ショップ「ダイソー」では「生キャラメル」「北海道メロン味グミ」。「ドンキホーテ」などの大手チェーンで、イタリアのフレッシュチーズ「ブラータ」を日本風に製品化し「生モッツアレラ」として売り出す。こうなってくるとガムシャラのエンジンが本格稼働だ。社長自らの営業活動にもますます力が入って、まだまだ広がりを見せる様相となっている。

      ラクレットチーズ

ブームを巻き起こしている「ラクレットチーズ」は既に8年前から製造に着手していた。現在は月産20トン以上、国産のシェアー90%を誇るトップ生産者となっている。チーズ単独の販売もするが、ラクレットチーズのうまさは「とろけたチーズ」にある。ラクレットチーズの故郷スイスと同じ食べ方で、「半円状にカットした切り口を暖めて、とろけたチーズを食材にかけて頂く」のが王道だ。そこで蝶になった事業家は「暖める道具(かなり高価)を飲食店に無料で提供し、チーズを買って頂く」という古典的だが斬新なシステムを考えた。この新(あら)たなるビジネスも日本ではトップを爆走することが予想される。

 

2016年、タイの牧場「ファームチョクチャイ」との業務提携により、花畑牧場流のチーズ造りを開始した。「乳牛2000頭を誇るこの牧場内に花畑牧場の工場を建設し、牧場で採れる高品質な牛乳からナチュラルチーズを造る」事業が動き始めたのだ。タイでは「自国の牛乳でナチュラルチーズを造る」という発想も技術もなかったので、タイの人々にとっては驚きの出来事だったが、花畑牧場から送り込まれた技術者や製造のプロ達はタイ人従業員を徹底的に教育していった。そもそもタイでは「チーズを食べる」という食習慣がなかったのだが、そこから生み出された製品は瞬く間にタイ中に受け入れられていった。「美味しかった」からだ。チーズブームとも言える活況を呈するまでになった花畑牧場のチーズ。これはアジア全域拡大への第一歩となった。田中義剛さん60歳、休んではいられませんね。       

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